おうちで名大博物館

名古屋大学博物館の収蔵品(13)最後の純血木曽馬「第三春山号」の骨格標本

(2021/05/26掲載)

ウマは古墳時代に中国大陸から日本に渡来しました。そして、権力者の乗り物として、やがて軍事用に、あるいは荷物を運んだり農耕の労働力として利用されます。これらのウマは現在のサラブレッドと比べるとかなり小さく、体高(肩の高さ)は120cm程度でした。やがて明治期になると、富国強兵政策の下でより大きな軍馬が必要とされたため、日本のウマは大型の西洋種との混血が推し進められて、大きくなっていきます。けれども、中部山岳地域で飼われていた「木曽馬」は、古い時代のウマの特徴を比較的よく残していました。身体が小さくて山や坂に強く、性格が穏やかで扱いやすい木曽馬は、山間地の農村にはなくてはならない農用馬だったのです。その糞は高冷地農業を支える有機質肥料として重宝がられ、また馬肉も食用になりました。

しかし、軍馬生産のために在来の馬と西洋種大型馬を交配する施策は次第に強化され、ついに1939年には種馬統制法が制定されて、木曽馬の種雄馬はすべて去勢されてしまいました。そのため、木曽馬の血統は途絶えたと思われていました。ところが、幸運なことに長野県更埴市の八幡社で神馬であったため去勢を免れた雄の神明号が第二次大戦後に発見されました。この神明号と残っていた木曽馬の雌である鹿山号とが交配されて、1950年4月に生まれたのが雄の第三春山号です。

第三春山号は最後の純血木曽馬であり、体高は132㎝でした。成長後は種雄馬として生涯に約700頭の雌馬と交配され、途絶えてしまった木曽馬を復元するために貢献しました。やがて、25歳になった1975年1月に老衰と骨軟化症のため安楽死させることが決定され、死後は名古屋大学において学術解剖が行われました。第三春山号の死により、純粋な木曽馬は現在は絶滅しています。

第三春山号の全身骨格は、名古屋大学博物館に展示されています。また、剥製標本は木曽馬を復元する際の標準典型とするために、故郷の長野県木曽町(旧開田村)の開田郷土館に保存・展示されています。この剥製標本から右前蹄と左後蹄の石膏型を取り、原寸大に復元された石膏標本も名古屋大学博物館で全身骨格と一緒に展示されており、山や坂に強い木曽馬の蹄が重厚であることを示しています。

新美倫子(初出:『文部科学教育通信』ジアース教育新社)


第三春山号の全身骨格

第三春山号の蹄復元標本

第三春山号の生前の姿

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