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名古屋大学博物館の収蔵品(12)オルドビス紀のコノドント化石 -日本最古の地層はどこか?-

(2021/05/13掲載)

名古屋大学博物館には、「日本最古の地層はどこか?」という論争に終止符を打った化石が収蔵されています。そしてその化石には、"研究成果"という無味乾燥なひびきの裏に隠れた、ある物語が存在します。

盲目の演歌歌手 竜 鉄也、あるいは藤 圭子の「奥飛騨慕情」で有名な、岐阜県の奥飛騨温泉郷。風情漂う"鄙びた温泉街"の裏山を流れる、一条の細谷「一の谷」は、化石の宝庫として知られています。1980年のある日、筑波大学の大学院生は、木々が鬱蒼と生い茂り、昼間でも薄暗い一の谷の谷合で、地質調査をしていました。地質調査は、道なき道を進み、必要とあらば滝や崖を素手でよじ登り、下山する頃には全身泥だらけ・傷だらけという、肉体的・精神的に過酷なものです。そんな最中、神様は彼女にちょっとした"ご褒美"を下さいました。彼女はある地層の傍らで、径数mmにも満たない、小さな化石を発見しました。化石は研究室に持ち帰られ、詳細な検討が行われました。その結果、「これはオルドビス紀(約4億8000万年〜4億4000万年前)の介形虫の化石であろう。したがって、その傍らの地層も"オルドビス紀の地層"であろう」という結論が下されました。

当時は、東北地方のシルル紀層(約4億3000万年〜4億2000万年前)が"日本最古の地層"とされており、それより古い地層は日本には存在しないというのが、一般的な見方でした。したがって、「それよりも古いオルドビス紀の地層が見つかった」というニュースは地質学界に大きな衝撃を与え、マスコミでも大々的に報じられました。一方で、"オルドビス紀層"に疑問を持つ向きも少なからずありました。理由は、①化石が地層ではなく、谷に落ちていた"転石"から見つかったこと、②"オルドビス紀層"とされた地層から、シルル紀の化石が見つかったこと、③化石は"オルドビス紀の可能性が高い"が断定はできないこと、などでした。そのような中、「日本最古の地層はどこか?」という疑問について曖昧さを残したまま、時は流れました。

1996年、富山大学の大学院生は、一の谷から2 kmほど東にある林道で地質調査をしていました。研究が遅れ気味であった彼は、焦りからか狂ったようにハンマーを振るい、地層から大量の岩石試料を取っていました(画像上)。距離300 mほどの林道から約650個の試料が採取され、その全てについて詳細な顕微鏡観察と化石の検討が行われました。そして、たった1つの試料から「コノドント」という化石が見つかりました(画像下)。コノドントは非常に小さく、電子顕微鏡でないとはっきりと見ることができません。したがってこの作業は、まさに「七つの大海から、たった一粒の真珠を見つけ出す」ような、苦難であったに違いありません。一方、見つかった化石は、日本でよく産出するものとは形が異なり、非常に古い時代のタイプのものでした。彼は「もしかして」という思いとともに、横浜国立大学の小池教授(当時)へ化石の鑑定を依頼しました。小池教授の答えは、「これは間違いなく、オルドビス紀のコノドントです」でした。1980年に一の谷で"オルドビス紀"の介形虫化石が発見されて以来、ずっとくすぶり続けてきた問題に、16年ぶりに決着がつけられた瞬間です。ここでようやく「飛騨山地にオルドビス紀の地層が存在する」ことが確定し、その後、この事実をもとに"4〜5億年前の日本列島の姿"に関する研究は大きく進展しました。

この物語には、2人の若い大学院生が登場します。今も昔も学問は、若者の「ひた向きさ」に支えられています。

束田和弘 (初出:『文部科学教育通信』ジアース教育新社)


オルドビス紀のコノドント化石が発見された地層(岩石試料)。地層そのものは、現在はコンクリートで覆われ見ることができません。

奥飛騨温泉郷から見つかったコノドント化石「Periodon aculeatus」の電子顕微鏡写真。白線は100μmを示す。

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